『あゝひろし峠』






 「あの峠を超えたら、おまんはもうおてんとさんの下を歩けん。じゃけェ、二度と家に戻れると思うたらいかんぜよ」






 大正七年・初冬。
 比呂士は女衒(※遊女奉公の手引をすること)の仁王に売られた。
 両親が高利貸しへの借金返済のために纏まった金が必要で、美しく生まれついた比呂士を見込んだ仁王が陰間茶屋(※売春する少年を集めお茶屋)に売れば高値で買い手がつくと両親に話を持ちかけたのだ。
 本来なら柳生家の跡取り息子として高等学校に進学をしている筈の年齢。
 けれど長子として大切にされた昨日までと違って、両親から告げられた家名存続の危機はまだ年若い比呂士にはあまりにも衝撃であった。
 ―――もはや、おまえを進学させるだけの資金はない。それどころか我が家は高利貸しにも多くの借金をしている、と。
 知らされた現実。
 祖父の代まで隆盛を極めた柳生家も、斜陽の一途を辿っていた。





 
 それからは地獄の日々であった。

 仁王という人間はは銀色の髪の毛をボサボサに生やし無精ひげを蓄え、下卑た厭な笑い方をする男だった。
 両親と引き離され連れて来られたのは潰れ掛けた東屋。
 辺りに民家どころか人影すらなかった。
 そんな何処とも知れぬ孤島のような場所で汚らしい男と二人きり。
 比呂士はぞっとした。
 納屋のような室内を見回してみても、こんなところに人は住めるのかと疑ってしまうほど汚い。
 けれどもどうやら仁王の家らしかった。
 きょろきょろと落ち着き無く怯える比呂士の腕を引いて仁王は有無を言わさず黴臭い納戸に監禁した。
 そこは薄暗くて、戸板の隙間から辛うじて光が漏れ入るだけである。
 その光に比呂士はすがりついた。
 「出してくださいっ。こんなところ嫌です!誰か、誰か!」
 一晩中叫び続けたけれど、とうとう誰にも届かなかった。


 しかし翌日、納戸から出された比呂士を待ち受けていたのは、監禁よりも遥かに過酷な現実であった。

 「男の初モンはあんまり喜ばれんけェ、ある程度仕込んどかんといかんのじゃ」
 そう言って仁王は圧し掛かってきた。
 「何をするのですか!?やめたまえっ」
 「おーおー、そういう寝技は仕事ンときに客とやりんしゃい。おまんの親にはきっちり金は渡しとる。嫌がるんじゃったら妹を売ってもエエがぜよ?」
 これ以上に無い脅し文句だ。散々暴れていた比呂士の身体がぴたりと止まった。
 妹はまだ子供である。それも比呂士以上に箱入りだ。そんな妹をこんな目に合わせるなんて考えられない。
 「卑怯な…!」
 「何とでも」
 動けなくなった比呂士の身体から、仁王は乱暴に着物を剥いでいった。

 仁王は力も強くそして巧みだった。
 比呂士はまだ女の身体を知らなかった。
 ましてや男に触れられるなど考えもしていなかった。
 他人に触れられる行為に慣れない身体は緊張して、無意識に仁王の指から逃れようと抵抗する。
 けれど仁王は上手く比呂士の肉体を押さえ込み、身体を解きほぐしていった。
 半裸に近い格好で身体中を舐め回されると、ゾクゾクと肌が粟立つ。
 「あっ、やめ…やめ…た…、あっ、ンっ」
 そして薄桃色の乳首を摘んで弄られると、次第に身体の力が抜けていった。
 それは初めての感覚であった。
 むず痒いのは最初だけで、身体の奥底から言いようの無い激しい快感で満たされていく。
 そして止まることの無い指は半勃ちになった男根を握られると体躯がしなった。
 「…あうッ!」
 初めて味わう他人の手の感触の刺激に若い性はすぐに硬く膨張する。
 「あっ、いやっ、離してっ…ああっ」
 気持ちいい。
 気持ち良くてわけがわからなくて柳生は喘ぎながら腰を揺らした。

 中等科に進学した頃から無性に下肢がムラムラする夜があった。
 学友たちと猥談して、女の身体に興味を持ったこともあった。
 我慢しきれない夜は指で己を慰めもした。

 けれどそれも、今この愛撫に比べれば稚拙な行為にすぎない。
 誰にも見せたことの無い恥ずかしいところを次々と暴き辱める仁王に翻弄されて、比呂士は啼いた。
 指は、根元から下にぶら下がる陰嚢を弄び、ガチガチにそそり勃つ怒張の敏感な場所を的確に愛撫していく。
 特に陰嚢の後ろの浅い窪みをぐりぐりされると気が狂いそうなほどよかった。
 後から後から愉悦が滲み、身体中を甘い感覚が支配する。
 全身が激しい愉悦に震え、もう限界はすぐそこにきている。
 「あっ…ああっン…駄目…出るっ――!」
 叫ぶと同時に、仁王の掌中にビシュッと若い精が迸る。
 まるで翅を毟り取られた小鳥のように、仁王の腕の中でピクピク震えていた。
 
 比呂士は泣いた。
 どうして己がこんな目に合うのか。
 親を恨んだ。
 世の中を呪った。
 そして…仁王を憎んだ。
 「こんな…こんな屈辱は生まれて初めてです!死んだほうがマシだっ」
 叫ぶと仁王は鼻で笑った。
 「じゃあどうすると?没落した家と家族に死ねち言うんか。薄情な息子じゃのう」
 家族をちらつかせて縛り付ける。
 どうしようもない比呂士は現実に唇を噛み締めた。
 「おい、身体傷つけるンはやめェ。おまんの身体はおまんだけのモンじゃなか。陰間茶屋『立海楼』のモンでもあるんじゃ」
 そんな風に言われると、悲しくて悔しくてポロポロと涙が零れる。
 「男のクセによう泣きよるのう。今日はもうエエわ。はよ寝ェ」
 と、仁王は優しく頭を撫でた。


 仁王という男は決して非道なだけの男ではなかった。
 女衒という少女を買い遊女屋に売りつける鬼のような仕事を生業にしていながら、柳生を扱う手付きは本当に優しかった。
 初めて指で肛門を犯されるときも、恐怖に泣き喚く柳生を優しく宥め落ち着かせ、ゆっくりと徐々に狭い後孔を開く。
 そんな根気の要る愛撫を一ヶ月、毎日続けば頑なだった蕾もじょじょに花も綻びを見せる。
 「あっあっ……、そこは、いやァッ!」
 今やすっかり愛撫に悶える身体に仕立て上げられていた。
 仁王の指が欲しい。
 もっともっと犯して、擦って、奥を入って欲しい。
 口にして言いがたいことを、身体中が啼いて訴える。
 「あン、やっ、ああっ…、ンあっ…」
 もう喉が潰れそうなほど、何度も泣いて喘いだ。
 優しい仁王の腕は熱くて心地好かった。
 抱かれていると守られているような安心感があった。 
 初めて感じる人肌の熱。
 その温もりは家族にさえ見放された柳生の心の拠り所であった。
 最初こそ憎んだが、もうすっかり身も心も仁王のものなってしまっていたのである。
 いつまでもこんな日が続けばいいと思うほどになっていた。


 仁王の家の障子を開けると、遠くに峠が見える。
 初めて此処に連れて来られた日、あの向こうに売られていく茶屋があるのだと教えられた。
 それ以来、柳生は遠くの頂を見たくはなかった。
 けれどその日は混沌と白と灰に染まる空が珍しくて、縁側に座った。
 柱に寄りかかってぼんやりと空とそのしっかりと聳える頂を見ていると、ちらりちらりと白い雪が降ってきた。
 もう、冬だ。
 去年の冬には妹と雪合戦をした。
 正月には家族で近くの神社に初詣にも行った。
 けれど、それももう今年はできない。
 家族のことを思うと、比呂士はまた涙ぐむ。
 たとえ売られたといえど、両親が恋しかった。妹に逢いたかった。
 雪のせいか酷く感傷的になってしまっていると後ろに気配を感じる。
 「何を見とると?…お、――初雪じゃ」
 仁王は横に立って比呂士と同じように空を見上げた。
 「…ええ」
 仁王に見られないように涙をそっと拭う。
 「今年もよう降るんかのう」
 「ええ、きっと」
 「ほいたら、はよ支度せんといかんのう」
 その言葉に比呂士は慄いた。
 「積ってしもうたら、峠越えも大変になるしの」
 
 
 図らずも穏やかだったときは過ぎ去り、現実はもうすぐそこまで迫っていた。


 「よう我慢したのう。もう立派に男を悦ばせる身体じゃ」
 ある夜、布団の中で肌を撫でながら仁王は言った。
 「これでもう客を取っても問題ないじゃろう」
 「…仕込みももうお終いですか」
 「賢いの。そうじゃ」

 仁王はどんなに柳生が悶えても、決して指以上のモノを挿入しようとはしなかった。
 そして中を締め付ける方法や、ねだるときの手管や表情の色気を求めた。
 その艶に仁王自身どれほど昂っていても、己が男根を柳生の身に沈めたりはしなかったのである。
 柳生が仁王の怒張を見たのは、尺八を覚えさせられたときだけ。
 このときだけは口の中に精液を出されて、それを飲むように教えられた。
 だから、すぐに気付いた。
 仁王が毎日手を出してくるのは、本当に女衒としての仕事の一環なのだと。

 「…最初からそうおっしゃっていましたので」
 「たった一月じゃったが、こうしておまんを抱くンも今日で最後かと思うと淋しいのう」
 笑って言われても真実味がない。
 仁王にしてみれば仕事の一つが片付いたに過ぎないのだろう。
 胸に去来する複雑な思いを仁王が知るはずもなかった。
 「これだけは言うとくぜよ」
 「…何ですか?」
 首を傾げると、仁王は切れ長の双眸を細めて笑った。
 「客を惚れさせてもおまんが惚れたらいかん」
 「……」
 「たくさんの奴らに金落としてもろうてなんぼじゃけェの」
 「わかりました。…ありがとうございます」
 「ンー、エエ子じゃの。俺はほんとにエエ拾いモンをしたぜよ」
 「では、私からのお願いを一つ聞いていただいてもいいですか?」
 「なんじゃ?」
 「貴方と接吻がしたいのです」
 仁王は不思議そうな顔をして、比呂士を見つめた。
 「……妙なコトを言うのう。エエぜよ」
 そして、そっと唇が重なる。それは想像していたよりもずっと温かかった。
 この唇から何度も恥辱の言葉を受けた。
 それももう最後なのだ。
 そう思うと名残惜しくて、柳生はもっと、と唇を押し付けると仁王の首に両腕を巻きつけて抱きついた。
 そしてねだるように下肢も擦り付ける。
 行為の途中だったせいで互いに勃起していた性器が触れ合う。
 比呂士は躊躇わず下肢を擦りつけた。
 「んっんっ」
 仁王が驚いて目を見開き、身体を離そうとする。
 それをさせまいと必死にしがみ付く。
 けれどそれも叶わなかった。
 「やめェっ!」
 両腕を敷布団に押さえつけられる格好で腕を剥ぎ取られる。
 見上げると仁王は激しく動揺していた。
 「比呂士……、おまん、もしかして」
 最後まで言われたくなかった。
 言うなら、自分の口で言いたい。
 「抱いてください。私を、今、抱いてください」
 仁王の双眸が驚愕に見開かれた。
 「な、何を言うとるんじゃ。そんなコトできるわけなか」
 「わかっています。…でも、でも…っ、そうして欲しいんです」
 見上げる仁王の顔が切なかった。
 言っても無駄だということが痛いほどわかっていたから。
 「……たった一ヶ月で、そんな女の目ェするようになったんじゃのう」
 苦笑いした仁王は、けれど首を横に振った。 
 「おまんの気持ちはわかったけど、それだけはできん。おまんは買われた身ィじゃ、明日にはここを出ないかん」
 まるで冷たい氷の刃を突きつけられたかのように胸が痛く苦しい。
 比呂士は唇を噛み締めた。
 初めに禁止されてい癖だったが漏れる嗚咽を止める術がそれ以外なかったのである。
 「泣いたらいかん。目ェ晴らしたら別嬪が台無しぜよ。そんなんじゃせっかくの価値も下がってしまう」
 優しい仁王はどこまで比呂士を陰子として扱った。
 

 朝になると、地面には薄く白銀の世界が広がっていた。
 昨日までならきっと美しいと思えた白雪の煌きも、今は何の感動もない。
 もう真っ当な人間でなくなるのだ。
 出掛けに遠くの頂を指差して仁王が言った。
 「あの峠を超えたら、おまんはもうおてんとさんの下を歩けん。二度と親のところにも帰れると思うたらいかんぜよ」

 草木を踏みしめ降りしきる雪に頬を凍えさせながら、比呂士は峠を越え男たちの欲望渦巻く立海楼へと旅立っていった…。




                                                           終劇