二年間 −第3話− 家に帰るなり、トイレに駆け込んでまた吐いた。 空っぽの胃はもう出すものもなくなっていて、黄色い苦い胃液が、便器の中に滴り落ちた。 ゲエゲエと呻く声に心配した母親が扉をノックする。 それに何とか返事をして、ごまかした。 それでもまだ何かを言おうとしてきたが、具合が悪いからと部屋に閉じこもった。 何も考えたくなかった。 学校にも行きたくなかった。 あれほど好きなテニスですら、今は考えられない。 仁王を思い出すと、胸がむかむかしてきた。 一日学校を休むと、ずるずると二日、三日と休んでしまった。 四日目、静観していた父親が扉の前に立った。 恐らく母親がせっつかれての行動だったのだろう。 これ以上心配をかけるのも忍びなかったけれど それでも今は外に出たくなかった。 父親は何を問い詰めるでもなく、好きにしろとだけ言い置いていった。 五日目。 怖ろしい人間がやってきた。 いつものように母親が部屋をノックするので、 鬱陶しいと思いながら生返事をすると 「テニス部のお友達が来てくださっているわよ」と返ってきた。 こんな自分を心配してくれる人間なんて限られている。 (柳君でしょうか) と想像しながら、 「入ってもらってください」 と安易に返事をした。 それが誰かも確認せずに。 だらしない格好を見せるわけにもいかないと、 柳生はパリっとしたシャツとこげ茶のスラックスに着替え、髪を整えた。 曇って汚れた眼鏡を外し、プラスチック製のレンズを拭く。 そこへ母親に案内されて、彼がやってきた。 「心配かけてすみませんでした」 と眼鏡をかけ直して、視線を向けた先にいたのは― 「よー、見た目通りの部屋でツマランのう」 仁王だった。 信じられなくて、目を見開く。 「何ボーっとしとると?…まさか俺が来ると思わんかったんか」 言われて、ハッとなった。 「……そんなことは、ありません」 冷静になろうと眼鏡のブリッジを押し上げる。 けれどその指が震えた。 「俺もクサいヤツの家なんざ、来とーもなかったんじゃけどなァ。 チーム代表でダブルス組んどる俺が来るコトになったんじゃ。 …えっらい手間かけさせてくれよったなァ、柳生サンよォ」 と、物騒な物言いで勉強机用の椅子に跨った。 重みでギイギイと軋む。 仁王の双眸がすうっと細められた。 「何かワビ、入れてもらおか」 「お詫び、ですか」 「そうじゃ。この俺にわざわざ足運ばせたんじゃ。きっちり謝礼せんかい」 謝礼なんて、何をすればいいのか。皆目見当もつかない。 「……お金ですか」 思いついたことを口にしてみる。 「ア?舐めンなよ、コラ。ンなモンで腹の虫が収まるかよ」 「では、何をお望みなのですか」 「…こないだからしとらんでな、かなり溜まっとんじゃ」 「…はあ」 「ヤらせろよ」 言葉の意味が本当にわからず、柳生は首を傾げた。 「ケツに挿れさせろち言うとるんじゃ」 「え?…何をおっしゃっているのですか」 「この間なァ、雑誌に男のケツもなかなかエエ具合じゃて書いとったんじゃ。 どんなモンか試さしてみ」 「…嫌です。そんな、そんなことできるわけないじゃないですか。 常識で考えてくださいよ。…私たちは男同士ですよ。 そんなの倫理に背いた変態行為です…!」 仁王の要求が信じられなくて、思いのたけを吐露した。 男同士でセックスをしたいというのだ。 考えられない。 どうしてそんなことを思いつくのか、まったく理解できなかった。 ふと、疑問が浮かぶ。 聞くべきがそうすべきでないか迷ったが、我慢できずに問いかけた。 「に、仁王君は…その、ホモなのですか」 それが、仁王の琴線に触れた。 腕を掴まれベッドに押し倒されて、腹を殴られた。 痛みで蹲る隙に、着替えたばかりの衣服を剥かれる。 されまいと必死になって抵抗した。 「嫌、嫌、やめたまえ!」 「騒いだら家族が来るんじゃなか?」 耳元で囁かれて、ピタリと動きが止まった。 そう、ここは我が家で。 階下では母親と妹が夕食の準備をしている筈だ。 「それとも、ママに助けてもらうと?それもエエかもしれんなァ」 含み笑いが耳元で聞こえた。 こんなところを、母親と純粋な妹に見せられるか? 無理だった。 答えはあまりにも簡単で、柳生は人形のように動かなくなった。 いや、動けなかった。 まるで獣のような同級生が、覆いかぶさってくる。 怖くて逃げ出したいけれど、我慢すればすぐ終わると目を閉じた。 柳生はまだ子供だった。 精通もまもない少年だった。 「ヤらせろ」と言われて、家族にバレる恐怖を選んだとき これから自分の身に起こることを覚悟していたのではなく 無知と未熟が、それを予想しきれていなかったのだ。 何もかもを後悔したのは、仁王の性器で肛門が裂けたときだった。 激痛で暴れて泣いて喚いた。 けれどそれは全て声になならなかった。 口の中にタオルを詰め込まれ、声を出すことを押さえ込まれていたから。 (痛い、痛い、痛い) わけのわからない熱いものを突き入れられて、ただただ泣いた。 仁王もまた、直腸のキツさに苦しさを覚えていた。 (全然気持ちよーなか) 締まりすぎてイくどころではなかった。 たいした知識もなく始めた行為。 ろくに慣らしもせずに突っ込んだ結果、動けなくなった。 押してみても引いてみてもどうにもならない。 気づれば、暴れていた柳生はぐったりとしていた。 「オイ、柳生。…オイ、オイ!」 と頬を叩いたが、全く反応なかった。 殺してしもーたかもしれん。 背筋が凍りついた。 「マジかよ…、シャレにならんわ」 心臓に手を置くと、トクトクと動いていた。 ホッと胸を撫で下ろす。 何とか、殺人者の烙印は免れたようだ。 柳生の身体を揺さぶって、何とか意識を取り戻させる。 「ン…、うぐ、ン」 「オイ、起きろよ。目ェ開けんしゃい」 とにかくこの状況から抜け出さなければならなかった。 何かに、呼ばれた。 聞きたくなくて逃げようとするけれど、身体は重くて動かなかった。 声は段々と大きくなり、意識がどこかに引き戻される。 「柳生、」 名前を呼ぶ声がリアルに聞こえた。薄く瞼を開ける。 ぼやけた視界の先に、滲んだ仁王の顔があった。 (…に、おうくん) と言おうとしたが、口に詰まったタオルのせいで声を出せずゲホゲホと噎せる。 すると、仁王が口の詰め物を取ってくれた。 新しい空気が気持ちよかった。 大きく深呼吸をすると、腰が圧迫感にズキっと痛んだ。 (そうだ、私は仁王君と…) 覚醒すると状況が掴めてくる。 見下ろすと仁王の股間と繋がっていて、その接合部はグロテスクだった。 「ケツ緩めんしゃい。抜けんよーになったわ」 「え、抜けないってどういうことですか」 「…そのままのイミじゃ。ガタガタ言わんと言われたようにせェって」 苛立つ声に身を竦ませる。 と、穴が締まったようで 「うっ」 と仁王が呻いた。 キッ睨みつけられる。 「緩めろち言うとろーが。締めてどうすんじゃ」 怖かったけれど、どうしようもなくて 「そんなこと言われても、私もどうしようもありません」 と、言い返した。 お尻を緩める、そのやり方がわからなかった。 普段勝手に締まっているものを、どうやって緩めろと言うのか。 「ちょっと、声我慢しとけよ」 「え、あ!…ヤっ」 叢の中でしんなり横たわっていた性器を摘まれる。 指先の刺激に、こんな状況でも感じてしまった。 「ン、あ…、ンっ」 シュッシュッと扱かれると勃起して、快感で身体が弛緩する。 その頃合を見計らったのか、ズルッと熱い圧迫感が消えた。 仁王が性器を引き抜いていた。 べっとりとついた血に、裂けた痛みが実感となってズキズキと疼き出す。 なんて、間抜けな格好なのだろうか。 もう羞恥も何もなかった。 あるのはただ痛みだけで。 股間を丸出しで、女子のように血まで流して…… どうしてこんな目に合うのか、わからなかった。 「オイ、ティッシュどこじゃ」 のろのろと重い指を上げて、机の上のボックスティッシュを指す。 後始末をする後姿をぼんやりと眺めた。 (早く、帰ればいいのに) これ以上苦しめられたくなかった。 「……大丈夫なんか」 その言葉に、顔を上げた。 無表情な双眸と、重なる。 それでもいつものような冷たさを感じなかったのは、 気のせいではないように思えた。 返事をしないでいると、仁王は近づいてきた。 反射的に身体が強張る。 何もされず、シーツの上にティッシュを投げ置かれた。 けれど目の前の箱を取れないほど、身体は憔悴しきっていた。 暫く沈黙が落ちる。 時計の針がカチカチ、と刻む音がクリアに聞こえた。 静寂を破ったのは、仁王で。 「明日、来んしゃい」 それだけを言い捨てると、部屋を出て行った。 階下で、母親と何か会話をする声が聞こえた。 その内容までは聞こえない。 布団に横になった。 腰の痛みで、今夜は眠れないかもしれない。 明日、もし行かなければ…、どうなるのだろうか。 考えると怖ろしくなった。 一つ、わからないことがあった。 この行為に意味があったのかと。 どんなに思考を廻らせても結論には至らなくて、そのうちすうすうと寝息をたてていた。 >>NEXT |
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